どぅるちゃん日記

Prem Durga:Osho Sannyasin 瞑想のあしあと

ちょっとだけ、じぶんの旅をふりかえる(むかしがたり)

おもしろく読んだ本。

マリア・ステファノ著
21世紀のクリヤヨガ: 性エネルギーを活用して超人になる (Kanda-Yoga出版)

これ、アオリ文でわかるひとにはピンとくるし、
だからこそ読んだのだが。

何をかくそう、わたしが20代のときまじめに取り組んでいたのが、ここに載っている、南米コロンビアのマスター、サマエル・アウン・ベオールが提唱した「ノーシス」のプラクティスなのだ。

ja.wikipedia.org

※顔が切れちゃった…

どれくらいまじめかって……それはあえていわないが、じぶんとしては、そうとうまじめに、ではある。
しかし、当時のインストラクターから「本気でやるのか、やらないのか?」と決断を迫られ、わたしは脱落して「退廃」の道を選んだ。

本気というのは、命をかけて(人生の“楽しみ”をすべて捨てて)ノーシスに身をささげる、ということ。「毎日何時間プラクティスしました~」ってな程度では甘く、さすがにそこまでの覚悟はできなかった。

で、この本のアオリにもあるように、ノーシス教義の大きな柱のひとつが「性エネルギー」の昇華だ。
「性エネルギー」とは、またいらぬ誤解を招きそうなことばだが、ノーシスはそんな期待に反して超・超・超ストイックなので、頭のなかでちょいとそういう妄想をすることすら許されないんですよ、残念ながら。

そして今、皮肉にも、ネットの弊害か、いまだに「セックス教団」なる情報が流布することもあるOshoの世界に身を置いている。
※もちろんこれも大いなる誤解だし、まあ個人的にそれを証明することもできるが、いちいちここに書くことではない。

ja.wikipedia.org

ノーシス・ムーブメントは雑誌「ムー」を通じて1980年代に大きな盛り上がりを見せたものの、その後の経過は、ネットで見るとなかなか寂しい感じだ。
その理由は、「取りまとめ役」の不在と、厳格さ・ストイックさゆえに若干「狂信性」を帯びてしまったことにあるのではないかと思う。
わたしも脱落したとはいえ、10年くらい前、ネット上で「どっちが本物だ、ニセモノだ」とノスティック同士があらそっている状況を憂い、著者が運営していたサイトの掲示板に書き込みした記憶もある。

だから、「活動は個人の自由に任せる」という点で基本的には共通しているOshoムーブメントが、マスターが不在になっても安定して継続していることはすごいな、とも思う。それはOIMRの存在と、若干の個人的なアレンジが許されるゆとり、何らかのビジネス・モデルがあることも大きいかもしれない(その是非はともかく)。

  

明かされたクリヤヨガの技法Vol.1: ファースト・クリヤへの準備 ヒマラヤの大師の系譜による真実 (クリヤヨガ出版)

明かされたクリヤヨガ の技法 VOL.2 上巻: ファーストクリヤ イニシエーション 聖ババジからラヒリマハサヤ大師へ伝えられた教え (クリヤヨガ 出版)

明かされたクリヤヨガの技法Vol.2 下巻: クリヤイニシエーション オムカークリヤ (クリヤヨガ 出版)

さて、これら一連の書籍を見ると、著者は十代のときからノーシスに真剣に取り組み、その後並行してかどうかはわからないが、ヨーガの道に進んだのだと思われる。

『21世紀のクリヤヨガ』のあとがきに、「懐疑的にこの世界と関わ」り、「学術的にどのような解釈がされるのかを並行研究してきた」とあるように、これらの本はきちんと理詰めされた筆者のひとつの研究成果として、とても興味深く安心して読める。

ただ、これをわたしが実践するか、ということになると、OSHO瞑想実践中の身としては、たぶんやらない。

まぜるな危険、が先に立つ。

20代のときにこの本があったら、きっと夢中になってやっただろうな、という点では惜しい。実に惜しい!!!

ちなみに、まじめに頑張ったわりには、わたしはノーシスのプラクティスで何の神秘体験もしていない。結局意識が眠って退廃しまくりだったし(じゃ、まじめに頑張ったとはいえない?)、アストラル・トリップもできていない。

「チャクラを開きたい(開かねば)!」
「超感覚を身につけたい(身につけねば)!」
幽体離脱していろんな世界に行きたい(行かねば)!」
「超人にならねば!!!!」

当時のわたしを駆り立てたのはそんな思いだったので、その強力な「エゴ」が邪魔したのだろうか(ちなみに「超人」ってことばは「ムー」用語だと思うけど、わたし世代では「キン肉マン」を連想させちょっと違和感があった)

結局、それから十数年後、なんの期待もせずにおこなったOSHO瞑想でわたしはぶっとんでしまったわけだが、それでも、わたしのスピリチュアルの土台をつくったのはノーシスのプラクティスであるとは認識している。

当時はよく理解できなかったノーシスの教えが、OSHO瞑想の実践を通じ、「ああ、そっかあ」と腑に落ちたことも多々ある。
だから、もう一度本を読み返してみたりしたのだが、やっぱり両立させるものではないと思ったので、結局再開してはいない。

しかしながら、この先ちょっとOSHOの道をひとやすみして、こういう、他の“修行法”を試してみることも、可能性としてないわけではない。

わたしもまた、OSHOの道に懐疑的にかかわり、マーケットプレイス(俗世間:Amazonの古本屋じゃないよ)的なものも含めて、第三者的な視点を忘れずにいたいと思っているからだ。 

わたしのこの方向性を快く思わないひとがいることも知っている。でも、それはすぐ「妄信・狂信」におちいってしまう傾向を持つ、わたしに張れる予防線のひとつなのだ。

パラレルワールドの存在は信じるし、行きつく先はひとつなのだろう。
けど、複数の道を都合よく同時に歩むことはできない。
だから修行法をまぜることはしないし、OSHO瞑想はトータルにやるよ!

でも、じぶんの歩みの検証は常にしていきたい。
どこに落とし穴があるか、わからないからね!

懐疑的とは、マスターの言うことをなにも考えずうのみにしないということ。
それは、だれかの与え示した答えを借りてこないということ。
自分の身をもって検証し、確かめることだ。

でも、それはあくまで個人的な作業であり、その結果をだれかに発表することはおそらくないだろう。

瞑想と読書、探究と探求。さらには、ふつうに凡人として生きること。
それらを通じて、わたしは旅の地図の謎解きを、そして自らを材料として人生という壮大な実験を続けていきたい。

それがわたしの人生ゲームだ。
いまは、そう思う。