プレゼンス・オブ・ザ・ロード
こんにちは。
東京は「不要不急の外出自粛」の事態となりました。
実は今週、瞑想会を再開することを考えていましたが、やっぱり気が乗らず、お知らせしませんでした。それでよかったというべきか。
現在「どぅるちゃん瞑想会」はクローズしていますし、わたし自身、あえてほかのグループにも参加していません。それは、いまのじぶんの本音に向き合ういい機会だと思ったからです。
なぜ、心がざわざわするのか
友人たちのFBの投稿やシェアが、じぶんのなかの何を刺激するのか
その感情に便乗して(コロナを口実にして)じぶんが吐き出したいものは何か
じぶんは何から逃げてる?
じぶんは何をおそれている?
きれいごといってる裏側にあるものは?
けっこうしんどいです。
いままでの「OSHOアクティブ瞑想」の習慣が簡単にふっとんでしまいます。
ある意味「ふつーのひとにもどってしまった」ような感覚です。
瞑想会があればすましたかおをするかもしれませんが(笑)、その必要がないので世俗的なじぶんむきだしです。
最近のわたしのFBをみて、それを感じているひともいるかもしれませんね。
さすがにダイナミックをやりましたが、やっぱりいろいろたまってました。その分トータルにやる気になったし、この瞑想の恩恵も痛感したのですが。(家なので基本的にSilent & No Jumpだけど、たまにこらえきれず、ふすまに穴をあけました・笑)
そんなことで、世俗的な思考や感情や行動にほんろうされつつ、それをひたすら見つめる日々です。
最近、わけあって外国のロックを聴いています。特に60年代後半の曲がすきです。
洋モノにはまったく縁がなかったし、エレキギターの音も苦手だったのに、アラフィフのいまになってガンガン聴けるようになりました(かなり偏食だけど)。
Osho Musicはロックの要素がつよく、しかもわたしごのみでかっこいい、というのも、ロックに親近感を持てた理由かもしれないですね。
60~70年代というのは、わたしにとって10代からおおきな意味をもった時代でした。20歳くらいでその熱がさめたので一過性のものかと思っていたのだけど、特に30代後半から、そこに引き戻されるような状況や出会いがつぎつぎと起こります。
そして、わたしにたくさんの話を聞かせ、たくさんの本を読ませました。そのハードルは、どんどんあがってきています。
いま、その点と点がつながってきているような気がするのです。
そして、Oshoや瞑想もまた、その点のひとつであるような気がするのです。
瞑想がすべてを包括するものだととらえていたわたしにとって、それは考えてもみないことでした。
”Presence of the Lord”ーー「神」や「マスター」とは、あくまでひとのかたちをとった存在です。わたしたちも、かたちなきものとして「存在」とか「臨在」ということばをつかいますが、ほんとうはことばを超えたところに、もっともっと、それを超えたものがあるのかもしれません。
この曲は、Eric Clapton によるものですが、Blind Faith では Steve Winwoodが歌っています^^
Eric が ”Presence of the Lord” に降伏するのは、この曲ができたずっとあとのようです。
Yvonne Elliman と共演バージョン。