どぅるちゃん日記

Prem Durga:Osho Sannyasin 瞑想のあしあと

悟りと幸せ

最近「さとり」ってものに、すっかり興味がなくなった。

たしかに、方向としてはそちらを向いているし、彼方にそういうゴールはあるのだけど、どちらかというと、その中間地点、というか「現実的な幸せ」ということに目を向けている。

現実的な幸せとは、お金とか仕事とか人間関係とか、もちろんそういうことも含んでいて、それを解決しないで、宗教的・精神的な高みばかりを目指すのはちがうような気がしているのだ。

たとえば、わたしは幼少のころから、すべての部屋がふすまだけで仕切られた、団地のような間取りのマンションに住み、自分の部屋を持たずに40年実家ですごした。
だから、今は古い賃貸の木造一戸建てに住み、かなりのスペースを自分のものとして占領している。

「自分の部屋」がある。それが、わたしにとってはスタンダードではなかったため、今それに対するこだわり、もしくは執着をもたらしているのだ。「欲深い」とおもわれたらそれまでだけど、今のところ、その執着を手放す気持ちはない。

人それぞれ、欠落欠損をかんじている部分はちがう。そして、それが瞑想や宗教的なことですべて解決できるとはおもわない。

物質的なことに不自由したことがない人が「モノより心」といって生活の心配なく瞑想三昧の生活を送るのと、生活がくるしい人が「モノより心」といって貧しいまま瞑想三昧の生活を送るのとではちがうのだ。

もちろん、わたしも瞑想で「強烈な体験」というものを何度かしているし、それで救われた部分もたくさんある。でも、それだけでは解決できない現実的な問題もあって、そこに瞑想の強烈な体験をぶちこんでも麻薬を打ち続けるようなものだ。

だからわたしは、現実的な欠落欠損を軽視せずに生きていきたい。そして瞑想が、悟りを得るためだけのものでなく、そんなささやかな「幸せ」を手にするきっかけとしても役立てばいいとおもう。